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クリミアがタヴリダと呼ばれたわけ

Kalichka / Getty Images
紀元前6世紀にクリミア半島を植民地化した古代ギリシャ人は、半島南部をタウリダと呼んでいた。

 「タウリダ」または「タウリカ」は、「タウロイ人の国」を意味する。古代ギリシャの学者たちによると、この人々は、半島南部の山岳地帯に住み、荒々しい気質で知られていた。

 ヘロドトスは、『歴史』にこう記している。

 タウリア人は、敵や難破船した者たちの首を切り落とし、長い棒に串刺しにする。いくつかの首は、神々への供物として聖域に安置し、他の首は、魔除けとして、家の周囲に置き、死体は海に投げ込む、と。

 タウリア人の起源も、彼らが話していた言語についても、何も知られていない。ただ確かなのは、彼らが半島を離れなかった、ということだけだ。

 「タヴリダ」という呼称は、徐々に半島全体に広まっていった。そして、13世紀にモンゴル人が襲来し、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)が成立するまで、使われ続けた。その後、この古代の呼称は、チュルク語の「クルィム」(「堀」または「要塞」を意味する)に取って代わられた。

 1783年、クリミアはロシアに併合された。当時、女帝エカテリーナ2世は、「ギリシャ計画」、すなわちオスマン帝国を分割してビザンツ帝国を復興するという構想に、心を奪われていた。半島では、ギリシャの遺産が復活され始め、「タヴリダ」という名称は、既存のそれと同等に使われるようになった。

パブリックドメイン

 ロシア帝国には、時期により、タヴリダ州あるいはタヴリダ県が存在した。それは、半島だけでなく、ドニエプル川に至る北部の隣接地域も含んでいた。