初代ロシア皇帝ピョートル大帝の死因は?
健康を害した皇帝
ピョートル大帝は幼少時代から頑健で知られ、終生鍛錬に励んでいた。仕事にも休暇にも並外れた熱意で取り組み、国家のために熱心に労働し、その後は派手な酒宴を催し、女性関係も奔放を極めた。
だが50歳になる頃には痔疾、下痢、腎臓の痛み、下肢のむくみなどに悩まされるようになった。最もピョートルを悩ませたのは尿閉で、その治療のために度々欧州の鉱泉を訪れた。
少しでも症状が良くなると、医師の静止をよそに、ただちに遊蕩を再開するのが常だった。
臨終の苦しみ
1724年、皇帝の症状は急速に重くなる。慢性的な尿閉が悪化して排尿ができなくなり、膀胱を空にするにはカテーテルが必要だった。
すでに薬を手放せなくなっていたが、効果は薄かった。食欲が失せ、発熱が続いた。秋になると症状がやわらいだため、「時おり庭を散策し、ネヴァ川で泳いだ」が、全快はしなかった。
1725年1月、皇帝は主顕節の祝いに参加し、寒空の中を式典の最後まで出席した。この後、症状は決定的に悪化する。
出来得る限りの治療が施された。おろしニンニクを混ぜて熱したガチョウの脂身を背中と胸に塗り、鎮痛のために後頭部にヒルを這わせ、サジーベリーやノイバラの果汁を飲ませ、膀胱穿刺を行って膿を除去した。しかし、これらは短期的に症状を緩和したに過ぎなかった。
ピョートル大帝はその最期の日々、たびたび気を失い、言葉を発することができず、右手と右足を動かせなくなっていた。2月8日、52歳でこの世を去った。
病か毒か?
ピョートル大帝の正確な死因は不明である。同時代人や後世の研究者たちは梅毒とアルコール中毒に起因する腎臓結石、「膀胱付近の腫れ物」、肝硬変、癌を疑った。
国立モスクワ第一医科大学の専門家は、ピョートル大帝の病気は腎臓結石であり、直接の死因は脳浮腫とした。
一部の研究者は、皇帝が毒殺された可能性を唱えている。ピョートルの側近アレクサンドル・メンシコフ公の指図とも、ピョートルの妃エカテリーナの差し金ともいう。メンシコフ公は皇帝から汚職を咎められており、妃は皇帝が死ぬ少し前に浮気を暴かれ、情夫のウィリアム・モンスは断頭された。
ピョートル大帝の葬儀に関わる遺物やその他の同時代の品々は、モスクワのクレムリン博物館で2026年2月1日まで開催中の展覧会「ピョートル大帝最後の凱旋。永遠の未来へ」にて展示中。