
ソ連時代の「科学者村」はどんなものだったのか(写真特集)

早くも1930年代に、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンの承認を得て、モスクワ州のペレジェルキノに、ダーチャ(別荘)からなる「作家村」が建設されていた。作家たちは、土地付きの家を無償で与えられ、森の静寂のなかで家族と離れることなく、一年中創作活動を行い、ソ連政権を褒め称えることができた。
大祖国戦争(独ソ戦)のさなか、科学者が新たなエリートとなった。彼らは、前線の課題に集中的に取り組み、成功を収めた。弾薬の生産を最適化、自動化した。将兵をより効果的に治療できる医学的発見をし、さらに、栄養不足の人々のためのサプリメントを作るべく、ビタミンの合成方法を研究した。戦後になると、科学者たちは、熱心に原子力計画に取り組み、航空産業や橋梁建設を改善し、数学や生物学において重要な発見をした。
ペレジェルキノの科学者版
1947年、ソ連閣僚会議(内閣)は、ソ連科学アカデミー会員のために、一群のダーチャからなる村を建設することを決定した。こうして、古都ズヴェニゴロドの近くに、「科学者村」、モズジンカが生まれた。

村の全体計画は、レーニン廟の建設で知られる、伝説的な建築家アレクセイ・シューセフが作成した(彼も、ここでダーチャを与えられている)。最初の67区画には、ガレージ付きの木造組み立て住宅が建てられた。

モズジンカには、独自のセントラルヒーティングがあり、しばらく経つと、村にガス管が通り、モスクワ直通の電話回線が敷設された。これほど贅沢な条件を提供するダーチャ村は、他になかった。

1955年、スターリン様式の粋を集めて、「科学者会館」がここに建てられた。円柱のある2階建ての宮殿は、塑像で壮麗な装飾が施され、200席の映画館、ビリヤード室、食堂、図書館が備え付けられていた。

現在、宮殿は修復され、科学者ギャラリーがオープンしている。
住人たち
「父の書斎には、独立したガラス張りのテラスへの出口があった。そして、その前には、石板が敷かれ、花に囲まれた、ちょっとした広場があった。これらはすべて、正面玄関の反対側にあったので、誰にも何にも煩わされることはなかった」。ソ連の電波物理学者ウラジーミル・コテリニコフの娘は、このように振り返っている。
「夏、天気が良いときは、父はたいていテラスで仕事をした。広場では、朝の体操をしたり、デッキチェアでくつろいだりしていた。考え事をしたり、本を読んだり、うたた寝をしたり…。冬には、父は書斎で働いたが、時には2階の父と母の寝室で仕事することもあった」

宇宙飛行の医療支援に携わっていた生理学者ワシリー・パーリンは、自らの手でダーチャを建てた。そして、伝説の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンが…塀の塗装を手伝った。
アレクセイ・シューセフは、モジンカの別荘にアーカイブを保管していた。ここから、マルタ・マリア修道院の、彼の手になるスケッチが、トレチャコフ美術館へ移されている。

物理学者レフ・ランダウの別荘もここにあり、隣人の物理学者アブラム・アリハノフを訪ねるのが大好きだった。ピョートル・カピッツァも頻繁に彼を訪ねて来た。

アリハノフについて、こんな逸話がある。彼は、原子力計画に加わっていたが、モズジンカでの園芸に夢中になり、ある日、夏服と汚れたゴム長靴を履いたまま、首都での重要な会議に出席したという。
モズジンカにダーチャを持っていたのは、最も高名な科学者とアカデミー会員だ。彼らの子孫は、今もここに住んでいる。