
ロシアのインテリに愛された詩人、ヨシフ・ブロツキーの希少な写真

ブロツキーは1940年5月24日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれた。母親は簿記係、父親は軍の写真家だった。

生活は質素だった。1955年に一家は有名な「ムルジの家」の一部屋を与えられる。この「ムルジの家」はかつて、「銀の時代」の作家や詩人たちが暮らしたことで知られる。ブロツキーはこの時の住居を「一部屋半」と呼んだが、現在同所にあるブロツキーの博物館も、「一部屋半」の名を持つ。

彼は非体制的な人物で、ソ連の生活に強いられたルールに従うことを嫌った。学校を卒業せず、8年生の時、授業中にふらりと出て行って、二度と戻らなかった。全ての作家や詩人が公式に就職している必要があった時代に、ブロツキーはそうした枠組みをも拒否し、ついに寄生生活の罪で有罪となって、北方に1年半の流刑となった。

ブロツキーの文学上の恩師となったのは、著名な女流詩人アンナ・アフマートヴァであり、他の3人の、いわゆる「アフマートヴァの遺児たち」と呼ばれる詩人たちとアフマートヴァ宅で多くの時間を過ごした。流刑の判決を知った時、アフマートヴァはこう指摘した:「あの赤毛の子にすごい経歴を与えたものだね!」。アフマートヴァの死は、ブロツキーにとっても大きな衝撃だった。葬儀の写真で、彼は右端に写っている。

ブロツキーの詩は掲載されなかった。ソ連のメディアには「合わなかった」のである。抽象性と聖書由来の引喩に満ちた彼の作品は複雑で、一般読者には難解に過ぎた。しかも流刑後のブロツキーの立場は半ばイリーガルなものであり、作家連盟にも加入できなかった(ソ連では極めて重要なことだった)。

翻訳や児童向けの詩作で生活の糧を得ていたが、自由に創作できない苦しみと屈辱に耐える日々だった。加えて、常にKGBの監視下にあった。1972年、ついにブロツキーは追放同然で祖国を後にし、ウィーン経由でアメリカへ移住する。

流浪の身のブロツキーだったが、西側では彼の詩が発表されていたこともあり、既にファンがいた。そのため、ブロツキーはすぐにミシガン大学の「客員詩人」となる。当初は、自分の作品をアメリカで出版していたカール・プロッファーとエレンデイ・プロッファーのもとに身を寄せ、アナーバーで暮らした。

その後はニューヨークに移り住み、コロンビア大学とニューヨーク大学で教鞭をとった。米国でのブロツキーは詩人としてより(詩の翻訳は極めて困難なため)、むしろエッセイストとして有名になった。自らも英語で執筆するようになり、雑誌のコラムも書いた。

1987年は歓喜の年となった。ブロツキーは「思考の明快さと詩的な力強さが一体化した、包括的な作品群に対して」という評のもと、念願のノーベル文学賞を受賞したのである。

受賞後、ブロツキーは一躍、世界的作家となった。同時に経済的にも恵まれ、ロシア移民に惜しげなく支援を行った。

ブロツキーの人柄をしのぶ重要な一面の1つは、彼が大変な猫好きであったということだ。

一方、私生活は順調とはいかなかった。若い頃は画家のマリーナ・バスマノワとの大恋愛があったが結ばれなかった。しかし2人の間には婚外子のアンドレイがおり、彼は母親の姓を名乗っている。バレリーナのマリアンナ・クズネツォワとの間には、娘のアナスタシアが生まれた。

50歳の時、ロシア移民の家系で29歳年下のマリヤ・ソッツァーニと結婚し、幸福な家庭を得た。1993年には娘のアンナ=マリヤ=アレクサンドラが誕生した。

ペレストロイカの頃、ブロツキーは祖国でもスターとなる。ようやくソ連でも彼の詩集が発刊され、インテリゲンツィアの間で絶大な人気を得た。加えて、亡命作家としての声望もあった。しかしソ連崩壊後も、ブロツキーは帰国することは無かった。

しかし、ブロツキーが故郷を恋しがってたのは間違い無さそうだ。何度も冬のヴェネツィアを訪れ、運河を散策しながら、故郷レニングラードを思い出すと語っていたのである。

北方への流刑の頃からブロツキーは心臓に問題を抱えていたが、医者の忠告にも関わらず、生活習慣を改める事は無かった。ニューヨークの自宅で心筋梗塞により死去した時、55歳だった。
