「タスの窓」:ソ連の画家たちはいかにファシズムに対する勝利に貢献したか

1941年6月22日、ソ連領内で大祖国戦争(独ソ戦)が始まった。欧米にとっては、第二次世界大戦の東部戦線だ。早くもその3日後の6月25日、プロパガンダ・ポスターを制作する編集部が発足した。これは「タスの窓」と呼ばれた。
1500万枚のポスター
ポスターを発案したのは、「芸術家同盟」のモスクワ支部のメンバーであるミハイル・チェルヌイフ、ニコライ・デニソフスキー、パーヴェル・ソコロフ=スカリャだった。彼らは、軍事的なテーマで、鮮烈なイラストと痛烈な四行詩を組み合わせたポスターを作ることを提案した。ポスターは、赤軍と後方の労働者の士気を高めるものでなければならなかった。このプロジェクトの主な画家は、有名な3人組の漫画家「ククルイニクスイ」だ。すなわち、ニコライ・クプリヤノフ、ポルフィリー・クルイロフ、ニコライ・ソコロフの3人。

「タスТАСС」は略称で、正式名称は「ソビエト連邦通信社」 “Телеграфное Агентство Советского Союза”。情報局のすべての情報は、この通信局を通った。だから、この通信局がどこよりも先にニュースに接したわけだ。このため、タスは、ニュースの内容の管理とその報道の効率化を任されていた。

これらの軍事ポスターは、革命後の有名なポスター「ロスタの窓」の名を受け継いでいる。宣伝ポスター「ロスタの窓」は、同じ通信局によって、内戦中に赤軍を支えるべく制作された。この通信局は、当時は「ロシア通信社」“Российское Телеграфное агентство” と呼ばれ、略称は「ロスタ РОСТА」。ポスターは、空いているショーウインドーに張られたので、「窓」と呼ばれた。

編集室での作業は、原画の制作から完成したポスターの配布まで、24時間を超えてはならず、また絵には10色以上を使用できないという厳しいものだった。チームでは、 560人の画家が3交代制で働き、毎日最大 1千作品が制作された。

「窓」は、ステンシルを使って印刷された。これは、手作業をともなう印刷方法だ。型紙の切り抜いた部分に彩色し、型紙をはがす。手間と時間がかからない印刷方法も使えたが、それだとポスターはあまり鮮やかにならなかった。

1941年6月25日から1946年12月29日までに、実に1,500万枚のポスターが制作された。それらは前線に送られ、掲示板、街灯柱、店の窓、フェンスなどに貼り付けられた。また、パルチザンのために特別なポスターが作られた。30x20cmの小さなビラ、パンフレットだ。

しかし実際には、ポスターの数ははるかに多かった。モスクワのものに似ているが異なる名称で、ソ連のさまざまな都市で制作されたからだ。レニングラード(現サンクトペテルブルク)、イルクーツク、クイビシェフ(現サマーラ)、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)、ペルミなどの都市でも作られた。

ナチスの宣伝に対する勝利
ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、ドイツ軍を嘲弄するポスターに激怒した。 そして、「窓」の編集部の全スタッフが、欠席裁判で死刑を宣告された。複製が海外にも送られたので、これらの痛烈なカリカチュアは世界中で知られていた。

「タスの窓」を通じて、大祖国戦争(独ソ戦)の歴史の中で最も重要な瞬間を跡づけることができる。それらの多くは、英雄的な行為と戦いをテーマとしている。たとえば、下のポスターは、爆撃機のパイロット、ニコライ・ガステロの偉業に捧げられている。彼は、被弾し炎上した乗機から離脱せず、敵の車列に突っ込み、爆破した。

画家たちの偉業
編集部では、厳しい労働条件にもかかわらず、ポスターを制作し続けた。「モスクワの戦い」の間、石油溶剤が不足していたので、画家たちはテレビン油とアセトンを使って作業した。夜間は、灯火管制のため窓を開けることが禁じられた。そのため、夜勤では3~6人のスタッフが中毒して救急車で運ばれた。

ドイツ軍に完全包囲されたレニングラードでは、1942 年春に編集部に残っていたのはたった 1 人のスタッフ、ワシリー・セリヴァーノフだけだった。彼は、画家と編集者の仕事を兼ね、しかも自分でポスターを貼った。セリヴァーノフは、計108点の「窓」を作成し、それぞれの部数は最大 3千に達した。

モスクワの編集局の一部のスタッフは、国家賞を受賞し、メダル「モスクワの防衛のために」(モスクワ防衛記念メダル)を授与された。

