
スタハノフ運動

1935年8月31日未明、ドンバスの普通の炭坑労働者、アレクセイ・スタハノフは一度のシフトで自身の仕事のノルマの14倍の仕事をした。こうして、いわゆる「スタハノフ運動」が誕生した
スタハノフはソビエト政権にとってまさに恵みだった。ソ連は強力な生産能力の開発に急ピッチで取り組んでいた。そこで、人民の偶像が自ら現れたのだ。アレクセイはすぐに国民的英雄として祭り上げられた。

英雄は次から次に現れた。製鋼工、フライス盤工、コンバイン運転手、縫製工、さらには靴職人までもがソ連の全国記録を打ち立て、ノルマを200パーセントも400パーセントも超過した。

だが人々が成果を出そうとしたのは、輝かしいソ連の未来を建設するためだけではなかった。記録を作る度に労働者はボーナスをもらえたのだ。スタハノフ自身も、最初の伝説的なシフトだけで月収の半額のボーナスを受け取った。

アレクセイ・スタハノフは、自身の記録を何度か破った後は暗い炭坑を去り、残りの生涯を扇動活動に捧げ、官庁職に就いた。彼の人気はソ連の国境を越えた。1935年12月には、彼はなんと米国の週刊誌『タイム』の表紙を飾った。

1935年11月にスターリンはこう指摘した。「同志よ、暮らしは良くなった。暮らしは楽しくなった。暮らしが楽しいと、仕事が捗る。暮らしが悪く、みすぼらしく、不愉快だったなら、我が国にスタハノフ運動は生まれなかっただろう」。

「スタハノフ運動者」という言葉は、ロシア語にしっかり定着し、ソ連崩壊後も消えていない。現在でも、人一倍働いて成果を出す人を指してこう呼ぶことがある。