レーニンの肖像画のモデルになった男

Archiv Gerstenberg/ullstein bild via Getty Images 最も典型的な指導者の姿、A.ゲラシモフの絵画「演壇上のレーニン」、1930年
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ヨシフ・スラフキンは、モスクワで弁護士をしていた。アマチュア劇団にも所属していた彼は、「世界のプロレタリアのリーダー」に瓜二つだった。

 1929年、一部のアーティスト達が彼に、レーニンの肖像画制作のためのモデルを依頼した。通常は写真や生前の肖像を利用し、モデルを起用することは稀であったため、アーティスト達も特にこの話を広めなかった。

 だがスラフキンに対する支払いがあまりに良かったので、ついに彼は本業を捨てて新しいキャリアをスタートさせた。さらに日常生活でも、レーニン然と振舞うようになった。レーニンの所作や歩き方を真似し、妻のヴァンダをナージャ(レーニンの妻の名)と呼ぶようになった。迷惑な隣人のことは、「娼婦トロツキー」と表現した。

 スラフキンはどんどんのめり込み、レーニン本人とも面識があったと豪語するようになった。共に亡命生活を送り、現在は個人的に年金を受けていると主張した。

 結局、この突飛な言動はお上に睨まれた。1941年1月、中央レーニン博物館館長のステパン・ベリャコフはVKP(b)書記のアンドレイ・ジダーノフに訴え出て、スラフキンの無礼な態度と勝手な言動もあいまって、画家たちがレーニンの人物像を歪めていると主張した。

 ジダーノフは直ちに「レーニンの代わりスラフキンの肖像画が出回る実態を停止」し、「社会・政治的に重要な意義を持つ写真について国家による管理体制を整える」べく指図した。

 関係者には念入りに説諭が行われたが、騒ぎがあまり大きくならように配慮された。以後、アーティストたちはレーニンのデスマスクを参考に肖像画を描くようになり、一部は別の題材を選ぶようになった。

 スラフキンは表立った活動を止めた。特徴的なヒゲも剃り、弁護士としての仕事を再開した。1974年、モスクワにて89歳の生涯を閉じている。

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