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ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンの生涯:13枚の写真で振り返る
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「レーニンが縮れ毛の幼い男の子だった頃…」。ソ連時代に流布していたこのフレーズは、1874年のこの写真から着想されたものだ。そこには、4歳のヴォロージャ(ウラジーミルの愛称)・ウリヤノフ(レーニンの本当の名字)と妹オリガが写っている。この写真の一部が「オクチャブリャータ」(共産党の児童組織)のバッジに用いられた。
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レーニンは、優れた記憶力と飽くなき知識欲を備えていた。ギムナジウムを優等で卒業して金メダルを授与され、カザン大学法学部に入学した。これは入学時の写真(1887年)。
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レーニンは、1887年に革命サークルに加わった。この頃、彼の人生に激変が起きている。彼の兄は、皇帝暗殺の陰謀に加担したかどで処刑された。レーニンは、学生の暴動に参加したことで、カザン大学から退学処分となった。その後、彼は、サンクトペテルブルク大学法学部の卒業検定試験に合格。写真では、レーニンがコミンテルン大会の会合で階段に座っている(1921年)。
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1893年、レーニンはサンクトペテルブルクに移り、熱心に経済学を学び、将来の妻となるナデジダ・クルプスカヤと出会った。また、扇動罪で1年以上刑務所に収監されている。上はクルプスカヤとの写真(1922年)。
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1897年に刑務所から出されると、シベリア流刑となり、そこで多くの論文を書いた。1900年に彼はヨーロッパに行き、新聞『イスクラ』の発行を始め、初めてレーニンの筆名を用いた。1905年の写真。
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国外でレーニンは、ロシア社会民主労働党の党大会に参加している。彼は、社会主義革命とプロレタリアート独裁を断固主張するようになり、1905年の第一次革命を積極的に支持した。1914年の写真。
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1912年、亡命中のレーニンは、サンクトペテルブルクで新しい新聞の発行を主導した。名高い地下新聞「プラウダ」だ。第一次世界大戦が始まると、オーストリア=ハンガリー帝国で、ロシアのためにスパイ活動を行ったとの容疑で逮捕された。写真は、プラウダ紙を読むレーニン(1919年)。
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レーニンは、ロシアが世界初の帝国主義の大戦争、つまり第一次世界世界大戦に、徒に容喙したと考え、自国の敗北を望んでいた。帝国の専制の廃墟に新体制を築くためだ。1917年の2月革命はレーニンにとって予想外だった。写真は、1917年に変装し鬘をかぶってロシアを移動したレーニン。
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レーニンは、4月にペトログラードで有名な「4月テーゼ」を発表し、その中で帝国主義戦争の終結(そして内戦の開始)と労働者代表ソビエトへの全権力の移行を訴えた。1917年10月、彼の主導で、2月革命後に成立していた臨時政府の閣僚が逮捕された。こうして10月革命が起きる。 写真は執務室のレーニン(1918年)。
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1918年にレーニンは、政府とともにクレムリンに移転し、首都もモスクワに移した。8月30日、エスエル党(社会革命党)の女性党員ファーニャ・カプランによる狙撃で重傷を負う。このために、指導者の健康は著しく損なわれた。写真はクレムリンにてのレーニン(1918年)。
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ロシアでは凄惨な内戦が起きており、レーニンは、いわゆる「赤色テロ」を命じる。すなわち、彼は、「富農、聖職者、白軍に対する容赦ない大規模テロ」を実行し、またすべての「不審者」を「強制収容所」に送るよう命令した。写真では、レーニンが赤軍部隊に演説している(1920年)。
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1922年末にソビエト連邦が成立した。スターリンは、各ソビエト共和国が自治ベースでロシアに組み込まれることを提案した。しかし、レーニンはその考えを斥け、各ソビエト共和国は独立した平等な立場で、ロシア共和国とともに連邦に加わるべきであると決定した。写真は1922年のレーニンとスターリン。
1923年、レーニンの健康状態は悪化し、モスクワ近郊のゴールキの邸宅に移り、そこで残りの日々を過ごすことになる。指導者は1924年1月21日に亡くなった。公式の診断によれば、「故人の病気の根本は、血管の早期摩耗による広範なアテローム性動脈硬化である」。
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これは1923年の撮影で、最後の写真の一つ。