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クレムリンにあった「アパート」
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ロシア革命後、モスクワの中心にある中世の要塞は、空き家にはならず、「クレムリン共同アパート」といったものになった。
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1918年、プロレタリアートの指導者ウラジーミル・レーニンは、ホテル・ナショナル(ナツィオナーリ)からここに移り、新ソビエト政府の他の指導者たちもそれに続いた。
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1920年末までに、2千人以上がモスクワのクレムリンに居住登録された。新住民は、ありとあらゆる建物に定住した。たとえば、大クレムリン宮殿、ポテシヌイ宮殿、テレムノイ宮殿、元老院、スパスキエ門の別館、タイニツカヤ塔、「イワン大帝の鐘楼」などにも、住人が見受けられた。
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レーニンと妻ナデジダ・クルプスカヤ、妹、そして同志たち――ヨシフ・スターリン、レフ・トロツキー、ミハイル・カリーニンなどを含む――は、騎兵会館に居を定めた。隣の大クレムリン宮殿には、革命家・政治家のヤコフ・スヴェルドロフとアナトリー・ルナチャルスキー、そしてボリシェヴィキの詩人・宣伝活動家であるデミヤン・ベードヌイが定住した。
アパートが住民間で再分配されて、「新居」に引っ越すこともあった。たとえば、スターリンとその妻ナデジダ・アリルエワは、騎兵会館から大クレムリン宮殿の女官室に移り、それからポテシヌイ宮殿の部屋に移転した。ここにはかつて、有名な女性革命家イネッサ・アルマンドが住んでいた。その後、スターリンは元老院の建物の一室に落ち着いた。その部屋は、彼が死去するまで彼に割り当てられていた。
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日によっては、モスクワのクレムリンは、ラッシュアワーの公共交通機関さながらだった。住民、請願者、用事を抱えた役人があちこちで走り回っていた。しかし、1920年代末には、クレムリンの住民は減り始め、彼らは都内の別々のアパートに引っ越した。
1950年代半ば、クレムリンは閉鎖された区画ではなくなった。クレムリンの「集合住宅時代」は終わり、「博物館時代」が始まった。ここを最後に去ったのは、クリメント・ヴォロシーロフ元帥で、1962年にアパートを引き払った。