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若きゲッベルスはなぜロシアに傾倒したのか:文学作品を愛読し「この国の奇跡」を待ち望む
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ロシア文学を愛読
「読書した。ドストエフスキーを読むのは初めてだ。これは凄い。『罪と罰』。連夜読んでいる」
1919年初めに、ヨーゼフ・ゲッベルス(1897~1945)は日記にこう書いている。こうして彼のロシアへの情熱が始まった。
フョードル・ドストエフスキーの作品は、20 世紀初頭にドイツで盛んに出版され始めた。1920~1922 年の間に、彼の本は約 40 万部がドイツ国内で売れた。
若きゲッベルスは、1919年から1920年にかけての冬に、レフ・トルストイの長編『戦争と平和』を読み、こう書き留めている。
「熟読している。トルストイ、ドストエフスキー、革命は、私の心の中にある」
作家ゲッベルス
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将来の第三帝国の宣伝大臣は、当時は作家になりたいと思っていた。実際、彼は詩や戯曲を書いていた。1929年には、彼は、ある程度自伝的な小説を出版した。『ミヒャエル――日記が語るあるドイツ的運命』がそれで、日本語訳もある(池田浩士編訳、柏書房、2001年)。当時、この作品は人気を博し、17回重版された。
本の中にはこんな文句がある。「ドストエフスキーの精神は、物言わぬ夢見がちな国に漂っている。この国は、新しい未来を目の前にしている。ロシアが覚醒するとき、世界は、この民族が引き起こす奇跡を目の当たりにするだろう」
ゲッベルスは、「ヨーロッパでは、精神的な問題が山積している」と確信していた。しかし、欧州には、「古き聖なるロシア」がある。彼は、この国を知らなかったのに、畏敬の念を抱いていた。
ヒトラーとの出会い、そして…
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1924年7月、ゲッベルスは日記に「ロシアを信じている」と書き、ロシアを「聖なる国」と呼んだ。ちょうどその頃、彼は初めてアドルフ・ヒトラーの活動に興味を抱く。
当初、ゲッベルスは、将来のヴァイマル共和国首相にはさほど魅了されなかったようだ。彼は、依然としてロシアを称賛し、「ヨーロッパ問題の鍵はそこにある」と考えていた。そして、「イギリスやアメリカなどにどうして希望を託せようか」と訝っていた。
プーシキンさながらに、ゲッベルスは、「ロシアが眠りから覚める」のを待っていた。「ロシアよ、お前は、死にゆく世界の希望だ。その日はいつ来るのだろうか?」。彼は1924年7月15日の日記で慨嘆している。
1925 年春、ゲッベルスは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。彼の日記からロシアに関する記述はしばらく消える。しかし、1925 年 10 月 21 日の日記に彼はこう記している。「いつかロシアに数週間留学したい」。が、彼は留学の目的を示していない。
1925年以来、彼の日記には、将来の総統への賞賛がはっきりと見られる。3月23日、ゲッベルスは、「ヒトラーは立派な男だ」と書いた。
1926年、ヒトラーは彼を「ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者」に任命した。そして、ナチが政権を握った1933 年、36歳のゲッベルスは、ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣に就任する。
第二次世界大戦が近づくにつれ、「ロシアは地上の地獄である」という考えが、ゲッベルスの日記に記されるようになる。かつてのロシア愛は、もはや痕跡もとどめなかった。