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ロシアで発見された秘宝8選:大量の硬貨、黄金、宝飾品、武器…

アレクサンダー・ガルペリン/Sputnik
硬貨、金銀の装飾や食器、武器、甲冑…。いろんな「お宝」が発見されてきた。

1.モスクワの「大宝物」(クレムリン)

ドミトリー・コロベイニコフ/Sputnik

 宝物の主要な「供給元」の1つはモスクワのクレムリンだ。市内最古の集落があったこの場所では、宝物が再三発見されている。たとえば、19 世紀の改修中に、大盃が見つかり、古代ローマの青銅と銅のコインが詰まっていた。しかし、1~3世紀の硬貨がどうやってモスクワにやって来たのか?17世紀に何者かがこのコレクションをヨーロッパで購入し、隠していたようだ。

 「地中への投資」は、泥棒や略奪者から貯蓄を守る確実な手段だった。1939年にスパスキエ門で、3万3800枚のコインが入った金属製の水差しが発見された。17世紀のロマノフ朝初期のツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチとアレクセイ・ミハイロヴィチの治世の硬貨だ。そのなかには、十字架や宝飾品も混ざっていた。どうやら、1648年の「塩一揆」の際に、誰かがこの方法で財産を守ろうとしたらしい。「塩一揆」は、税額と塩の価格の高騰が引き金となり、モスクワで大規模な暴動に発展したものだ。

ドミトリー・コロベイニコフ/Sputnik

 しかし、最大の発見は1988年に起きた。土木工事をしていた建設労働者たちは、13世紀の宝物に文字通りいきなり出くわした。それは、金と銀の延べ棒、スラヴ、スカンジナビア、ペルシャの宝飾品など合計300点にのぼった。おそらく、バトゥ率いるモンゴル軍の侵攻を前に、モスクワ公のウラジーミル・ユーリエヴィチ公が宝物を地中に隠し、モンゴル軍から守ろうとしたのだろう。1238年、バトゥはモスクワを焼き払ったが、宝物は彼の手に入らず、700年以上地中に眠っていた。

2.トルベツコイ・ナルイシキン邸の宝物

Sputnik

 修理・改修は、言ってみれば、歴史家のアシスタントだ。しかも何と素晴らしい助っ人であることか!2012年にサンクトペテルブルクのトルベツコイ・ナルイシキン邸で建設工事が行われていた際、作業員が2階と3階の間の天井を開けた。

 そして、彼らは絶句した。彼らの前には、長持や小箱の入った袋が置かれていた。そのなかには、銀製品、メダル、宝飾品、時計、燭台、その他多くのお宝が詰まっていた。彼らは、長く思案することなく、できるだけ速くすべてを持ち出すことに決めた。だが、夜中に慌ててバンに何かを積み込んでいた労働者たちは、勤務中の警察官に不審に思われた。彼は、袋の1つをランダムに開けた…。今度は彼が絶句する番だった。

Sputnik

 革命が起きた1917年、ナルイシキン一家が、そしてそれに続いて、彼らの邸宅の最後の所有者、近衛軽騎兵連隊のセルゲイ・ソモフ中尉とその妻ナタリヤ・ナルイシキナがロシアを去った…。

アレクサンダー・ガルペリン/Sputnik

 見つかったのは、ナルイシキン家とソモフ家の紋章が入った2千点以上の品々だ。そのなかには、イグナチー・サジコフ社の豪華な食器セットも含まれており、合計400キログラム超の財宝だ。これは、ロシア最大の掘り出し物となった。 

3.リャザンの秘宝

ウラジーミル・ウドヴィン/Sputnik

 1822年、農民のウスティン・エフィモフとモイセイ・エフィモフは、道路建設の作業中に一対の「丸い破片」を見つけた。それは、黄金のように見えた。そこで、彼らはさらに探し始めた。すると、鋤は、ブレスレット、イコン、コルト(女性の帽子の装飾)、バルマ(宝石や真珠があしらわれ、聖人の像が描かれた大きな丸いメダリオン)が地中から掘り出された。

 これらの豪奢な装飾品は、公や公家のレガリアの一部と考えられている。モンゴル帝国の侵攻で壊滅した旧リャザンで発見された、これら宝物に対して、エフィモフ家は、1万ルーブルの報酬を与えられた。

4. イパチェフ横丁の宝

歴史博物館

 かつて、モスクワのイパチェフ横丁には、陶器師や鍛冶師が軒を連ね、その後は、富裕な住民がここに居を定めた。16世紀、公職に就いている士族と貴族は、号令一下、閲兵式や遠征に加わらなければならなかった。そして、そうした場合に備えて武器と甲冑も保有すべきだった。だから、1895年にイパチェフ横丁の建物の1つで武器一式が見つかったのは驚きではない。イワン雷帝(4世)の時代の兜、鎖帷子、甲冑、槍の穂先、硬貨…。

 1969年、考古学者たちは、ここで黒焦げの樽を発見した。そのなかには、斧、ナイフ、手造りの火縄銃(滑腔銃)などがあった(*滑腔銃は、銃身内にライフリング〈施条〉がない)。

 しかし、さらに驚くべき発見が1970年にあった。巨大な銅製のたらいが、ぎっしり上までスペインのペソとレアルの銀貨で満たされていた。マドリード、バルセロナ、セビリアだけでなく、メキシコ、ボリビア、コロンビアで鋳造されたものもあり、硬貨は計3398枚にのぼった。この掘り出し物のお宝の重量は74キログラム!それらは、どうやってモスクワに来たのだろうか?どうやら、どこかの商人がそれらを、国庫に売って鋳直させようとしたらしい。

5. 「ゴスチーヌイ・ドヴォール」の宝物

Archive photo

 文字通り、目と鼻の先に黄金があった。それは、1965年にサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)の「ゴスチーヌイ・ドヴォール」(伝統的な巨大屋内市場)で発見された。改修中、作業員が床を開けてレンガ積みを見つけたが、あまりにもデコボコしていた。彼らがそれを解体し始めると、この昔の建材が異常に重いことが分かった。

 「もしかしたら金かもしれないな」と労働者たちは笑ったが、念のため、その発見物を調べてもらうことにした。すると、単に黄金であるばかりでなく、純度が最高水準の900だと判明した。 この退屈な作業への関心は一気に高まり、最初のレンガにさらに 7 個のレンガが追加され、計128キログラムが引き出された。

 かつて、この敷地には皇室御用達のイワン・モロゾフの宝石店があった。彼の息子たちは、万が一に備えてここに隠し場所を設けたが、革命後、ついにそこに保管されていたものを持ち出すことはできなかった。

6.「旧ゴスチーヌイ・ドヴォール」の宝物

 一見素朴な水差しに、何か貴重なものが保管されているようだった――オイルかワインか?

いや、事態は簡単明瞭だった。お金だ!旧ゴスチーヌイ・ドヴォールで見つかった2つの容器は、モスクワ最大の硬貨の「金庫」だったと判明した。16世紀後半~17世紀初頭の西ヨーロッパの硬貨335枚。それに加えて、イワン雷帝、フョードル1世、ボリス・ゴドゥノフの治世に鋳造された9万5千枚以上のロシア銀貨だ。

7. 商人プリューシキンの宝物 

プスコフ地方考古学センター

 2016年、プスコフで考古学者らは、300枚以上の硬貨、メダル、宝石、勲章を発見した。宝物は、6つの缶に丁寧に詰められていた。ノヴゴロド、プスコフ、モスクワ、トヴェリの「チェシュヤ」(楕円形の硬貨)。そしてアレクセイ・ミハイロヴィチの治世の「エフィモク」(全欧で流通していたターラー銀貨にロシア皇室の紋章などを打って、ロシア国内で流通させていたもの)。そして、ボリス・ゴドゥノフ治下のコペイカ(硬貨)、ピョートル1世時代の硬貨、エカチ​​ェリーナ2世時代の、褒賞の柄杓と杯、戴冠式の記念コイン、さらには高純度に精錬された金の延べ棒まであった。

プスコフ地方考古学センター

 おそらく、このコレクションは、希少品や骨董品の熱心な蒐集家だった商人フョードル・プリーシキン(1837~1911年)の所有物と思われる。彼は、40年にわたってコレクションを補い増やしていった。絵画、武器、名将アレクサンドル・スヴォーロフの私物、イコン、そしてもちろんコインなど、文字通りありとあらゆるものに興味を抱いていた。彼の貨幣のコレクションは、84箱もあり、エルミタージュ美術館よりも多かった!

8. ウスチュジナ(ヴォログダ州に所在)の宝  

ウスチューズェンスキー郷土博物館

 コインが800キログラム以上?そう、1936年にウスチュジナの「聖母(生神女)誕生大聖堂」の地下から、それだけのものが発見された。18世紀前半の女帝アンナ・ヨアーノヴナからニコライ2世の治世にいたるまで、さまざまな年代のお金だ。ほとんどが銅貨だが、銀貨もあった。おそらく、それらは聖堂に寄付されたのだろう――たとえば、鐘を鋳造するような場合に。