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モスクワの「赤の広場」で誰がどのように処刑されたか?

ヴァシーリー・スィーリコフ/トレチャコフ美術館
ロシアで最も有名な広場――「赤の広場」――では、稀にだが、処刑が行われることがあった。死刑はふつう、同市の他の場所で、大抵は近くのボロトナヤ広場で、執行されていた。

 1682年7月21日、スーズダリの司祭ニキータ・ドブルニン(プストスヴャト)が、赤の広場で斬首されたことが知られている。彼は、正教会の「ニコンの改革」に反対し、教会に対する罪で告発された。

 当時、軍の中核を成していた「ロシアの銃士」、ストレリツィ(銃兵)もここで処刑された。1698年、一部のストレリツィが、経済的・社会的状況に不満を抱き、反乱を起こしたが、すぐに鎮圧された。ピョートル1世は、自ら裁判を指揮し、数名の叛徒の首を自ら刎ねた。

 合計で約700人が処刑され、そのほとんどは、モスクワ近郊のプレオブラジェンスコエ村で行われた。しかし、赤の広場でも、数百人が刑死した。

 この皇帝の死後は、クレムリン前の広場で首を刎ねることはなくなったが、代わりに、そこで「辱めの刑」が行われるようになった。罪を犯した者は、公衆の面前で辱められ、嘲笑された。

 1768年、139人の農奴を拷問して死に至らしめた女地主サルティチーハ(本名ダリア・サルティコワ伯爵夫人)が、「辱めの杭」に縛りつけられた。同じ頃、イストミンなる貴族がやはり「辱めの刑」に処せられた。刑吏は、彼の頭上で剣を折り、平手打ちにした。